往古このあたりは元興寺の境内で樹木が繁茂していたところからこの町名が生まれたと伝えられている。西寺林というのは東寺林に対し、その位置が西にあるところから西寺林と呼ぶようになったともいう。『平城坊目考』には「興福寺の坊舎、光林院、東寺林町にあり、その西にあたるによって西寺林あること明らかなり」とある。
現在この町は商店街として賑わっている。
そのなかに「文殊庵」がある。南都で有名な刀師であった文殊四郎包永の子孫で、もと北方の包永町に住んでいたが、いつのころからかここに移った。同家には刀剣の製造に使用したフイゴや藤原包常と染めた「のれん」など保存している。昭和53年市庁舎の移転でこの町にも多少の変化を見るであろう。 (奈良町風土記 山田熊夫著 昭和52年版)